Look This!  Gallery 陶迷庵 − 私のお気に入り * Page 6

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Doccia C/S & Cozzi Plate From KEI様 02/03/06

     

1770−80年イタリアDoccia 窯 Piatto con decoro "del tulipano" 
イタリアドッチア窯のチューリッパ柄のC&Sです。
薄手ですがしっかりとしたイタリアもの特有の重さがあります。
素地はグレイがかっています、ソーサーは実際に使われていたものらしくスクラッチがかなり見受けられます、マークはありません。

   

1770年 イタリアCozzi窯 シノワズリ柄プレート 22cm
伊万里写しとも呼ばれていますが明らかにシノワズリ柄です。
コンディションは良いのですが、ドッチアのC&S同様使用されたスクラッチがかなりあります、釉薬がほんの少しラスター彩のように光って見えるところがありますが、はっきりはわかりません。
素地の色はドッチアのC&Sに比べ白いようです。


St.Petersburg & Niderviller Figurines From kazu様 01/31/06

   

   


Doccia, Ginori Trays for Soup Bowl From kazu様 01/30/06

   

裏側の画像: 


2 Cozzi Plates From kazu様 01/21/06

   

Cozzi窯(1763-1812)は、ヴェネチアでも先発のVezzi窯、Hewelcke窯が短期間に閉窯したのに比べ、50年近く操業し、マイセンのコピーから始まり、多種多様なデザインの作品を残しています。
Hewelcke 窯と同じように、ヴェネチア領内のトレットより採取したカオリンを使用し、灰色がかったペーストが特徴です。
窯印は朱色の錨で、チェルシー窯よりも大きく、上部に輪っかが一つ余分についています。この窯印は必須でなく、また軟質でも硬質でも、この窯印のついた作品が存在しています。

この2枚のお皿は、軟質のペーストでできており、おそらく最も初期の作品ではないかと、思われます。
中央の花束と小花散らしを囲んで、コバルトと金で装飾した帯が描かれ、その帯から内側へ、まるで地面からにょきにょき生えているように、草ばなの装飾がされています。
帯の外側には、放射状に草花の装飾がなされ、葉っぱの形にくりぬいた透かしが入れてあります。
直径約22.2cm


Royal Worcester Japanism C/Ss etc. From Mie様 01/18/06

上段はすべて1880年代のRoyal Worcester C&Sです。
下段左は、Coalbrookdaleですが、いまだに用途不明の品です。


2 Silver Overlay Demi C/Ss From risuko様 01/09/06

 

1895-1910年頃に作られたと思われるシルバーオーバーレイのC&Sです。
アール・ヌーヴォーの影響を受けた図案が美しい作品で、巻かれた銀に彫りが施されています。

この2客のC&Sは、私が磁器の収集を始めた頃、偶然に陶迷庵のHPに出会いご亭主のまゆきさんから譲っていただいたもので、私にとって 思い出になる逸品です。


Richard Ginori Plate From まゆき 01/01/06

 

ジノリの伊万里写しのプレートです。年代は1884〜1891年頃。直径約23cm。

写真では分かりにくいのですが「GINORI」と裏側に陰刻されています。こんなものも作っていたのか!と驚きました。
中央の絵付けも良いのですが、輪を重ねたような縁取りに描き込まれた文様が見所だと思います。 裏側にも松竹梅のおめでたい柄に、縁取りにも表とは違う柄が描かれています。
高台の形も忠実に本歌を写したのでしょうか、興味は尽きません。


Mennecy silver-mounted snuff box of a rabbit From Rouge様 11/06/05

   

Mennecy・bourg-la-reine窯(1734−1806)別名(ヴィルロワVilleroy磁器)

1734年ごろフランソワ・バルバンによってパリのシャロンヌ通りに磁器窯が作られたのがそもそもメヌシー窯の始まりで、1745年に王立窯(ヴァンセンヌ)の擁護の為に民窯は閉鎖を余儀なくされ、1748年にバルバンはヴィルロワ公爵の庇護化に窯を移しヴィルロワ城に住み、隣接するメヌシーの街に窯を開設します。
これにより一般にこの窯をメヌシー窯を呼びます。
1755年からはバルバンの息子ジャン・バティストも参加して1765には彼が監督になります。1768年からはソー窯のジョセフ・ジュリアンとサンフォリアン・ジャックの監督下に移り、1772年には彼らはウー伯爵の受け入れによりブール・ラ・レーヌに窯を移しますが、以前のような優れた作品は作られず、1806年に閉窯します。

メヌシーは初期こそはサン・クルー窯の模倣作品を制作していましたが1750年頃から独自の色絵によって有名になり、特にその花絵は人々の賞賛を浴びました。
しかしセーヴル窯に対する王家の保護政策の前にその色絵も制限を受け、次第に衰退していきました。

タバティエールはサン・クルー、シャンティーを始めメヌシーでも様々な形で作られましたが、このタバティエールは1750〜60年ごろにかけて製作されたもので、白磁のままのものもあるのですが、これは上絵付けがされています。

サイズは高さ約4cm、長さ(兎の頭から尾まで)6cm、銀製の蓋のサイズ、幅3.5cm、長さ5cm


Meissen celadon glaze butterboat From まゆき 08/20/05

   

1750〜60年代頃のバターボートと呼ばれる葉形ディッシュです。錆釉の代わりに青磁釉が外側にかかったバタビア手の一種。ハンドルを含めた幅11.8cm、深さ3cmです。
今までバタビア手はカップ&ソーサーしか見たことがなく(青磁釉バタビアのカップ&ソーサーはhiroさんがお持ちです)、このディッシュを見つけたことでティーセット等他の器形もあるかも知れないと探求心をそそられています。

こういった少し深みのある小さな葉っぱ形のディッシュは、指が通るハンドルがあるものをbutterboat、ハンドルが無いものをpickles dishと呼んでおり、裏側には草花の浮き彫りがあるものが多いようです。
なぜ、ハンドルの有無で使い方が違うのか?こちらも興味深い謎です。
さらに、これに中国の本歌があるのか?というのも気になります。


A Gold Tie Pin with Leather Case From Rouge様 06/14/05

 

 イギリスでタイ・ピンに仕立てられた、金製のカフス釦なのですが、これはナポレオン3世の皇后ウージェニー・マリー・ド・モンティージョ・ド・グスマン(マリア・エウヘニア・イグナシア・アウグスタ・デ・グスマン・イ・パラフォス・イ・ポルトカレーリョ)Maria Eugenia Ignacia Augustina de Guzman y Palafox y Portocarrero(1826〜1920)が思い出の品として下賜した物です。

 ウージェニーは1826年5月5日にスペイン・アンダルシアのグラナダにモンティホ公爵(モンティホ家はスペインの筆頭公爵であるアルバ家(有名なゴヤの裸と着衣の2点のマハ像は第14代アルバ公爵(女公爵)カジェターナともカイエターナとも、を描いたものと云う説があります)に次ぐ名家で、その歴史は古く、現スペイン王室のブルボン家やそれ以前のスペイン系ハプスブルク家が王位に就く以前に立てられた家系です)の弟テバ伯爵(後に兄の死去後、後継者の無かった兄の爵位を継いでモンティホ公爵。
 デバ伯爵位はシプリアーノの死後ウージェニーに継承され、彼女はテバ女伯爵と呼ばれました)ドン・シプリアーノと夫人ドニァ・マヌエラ・カークパトリックとの間に生まれました。

 父親は十二世紀に遡る名家グスマン家の後裔で、母のマヌエラはマラガ領事を勤めたスコットランド商人の娘で、大変な美貌と陽気な性格でプロスペロ・メリメが『カルメン』を著すのに影響を与えた人物して知られています。ただその美貌故に奔放な生活を送り、夫婦仲は冷え切っていたそうです。
 後にマヌエラは女王イザベル2世の宮廷で女官長の地位に就きますが、その勝気な性格が災いし宮廷の因習を守る女官達との間に軋轢を生み、その職を追われています。

 ウージェニーはスペイン内戦の影響とアルバ公爵との縁談で姉のフランシスカがアルバ公爵と結ばれた事による失恋でパリに移り、そこで当時共和国大統領だった、ルイ・ナポレオン(後の皇帝ナポレオン3世、大ナポレオンの弟でオランダ国王とジョゼフィーヌと前夫との娘オルタンス・ド・ボーアルネの間の子)と知り合い、ナポレオンは後1851年クーデターにより皇帝となり、1853年1月30日ノートル・ダムで2人は挙式します。

 このウージェニーとナポレオンの出会いのきっかけを作ったのは、他ならぬ後にウージェニーのライヴァルとなるマティルド皇女で、皇女は大ナポレオンの弟ウェストファリア国王ジェロームの娘でルイ・ナポレオンとは従兄妹の関係に当たります。
 皇女はルイ・ナポレオンと恋仲になりますが、彼を嫌った父親により婚約を破棄、1840年にロシア貴族で大富豪のアナトール・ニコラエヴィッチ・ドミドフと結婚しますが、夫とは相性が悪く、第二帝政が始まるとパリに住み、ナポレオンに多大な影響力を持ち続けました。
 皇女はナポレオン3世にとって彼を皇帝にする事に多大な貢献をしたイギリス人女性ハワード嬢(皇帝の愛人)を遠ざける為に、美女に目のなかったナポレオンにウージェニーを餌に使ったのでしたが、マティルドもまさかウージェニーがナポレオンの皇后になるとは夢にも思わなかったようです。

 マティルドは第二帝政の終焉まで帝政を影で操り、事ある毎にウージェニーと対立しました。
 ウージェニーは皇帝不在時に2度摂政の地位にあり、ナポレオン3世の宮廷を女性として支え、パリをモードの中心地にした立役者でもありました。

 このカフス釦はウージェニーが亡くなった皇太子ルイ・ナポレオンの思い出の為に、生前彼が使用していたカフス釦をタイ・ピンにして下賜した物です。
 皇太子ルイは1856年3月16日に生まれ、これは難産の末の出産だったそうで、その後ウージェニーは子供には恵まれず、この皇太子が唯一の子供となるのです。

 1870年にフランスはプロイセンに宣戦布告し、それに敗戦。ナポレオンは捕らわれの身となり、帝政は終りを告げます。この折に第二帝政の華であったチュイルリー宮も焼け落ち、現在ではその栄華を、ルーヴルにある“ナポレオン3世にアパルトマン”で偲ぶより他ありません。ウージェニーは親友であったヴィクトリア女王を頼りイギリスに亡命、ナポレオンも後、釈放されイギリスに亡命し1873年に亡くなっています。

 夫の死後、ウージェニーの“ボナパルト家再興”の夢は息子に重く圧し掛かり、万事につけ母親の束縛から逃れられない事に嫌気がさした皇太子は、1879年に南アフリカで勃発したズールー戦争にイギリス軍の兵士として参戦、6月1日に英国哨戒部隊に参加し前線に於いて、ズールー族の反撃により落馬し逃げ遅れ、虐殺されてしまいます。

 息子の戦死を知ってからのウージェニーは以前の様なボナパルト家再興の夢も捨て、死ぬまで喪服以外を身に着けなかったそうです。その彼女がイギリスで皇太子の遺品から、このタイ・ピンを作り、思い出とした訳です。ウージェニーは皇太子の死後も40年間生き続け、1920年7月11日にバルセロナで風邪が元で亡くなりました。
 タイ・ピンの革製のケースには『皇太子殿下のカフス・釦、皇后陛下によりタイ・ピンに変えられ、思い出の為に下賜された』と書かれたチケットが付けられています。

 1911年の夏、晩年の皇后に当時22才の詩人ジャン・コクトーは紹介され、その時の思い出を『記念写真・1900〜1914年』の中でこう回想しています、
“顔は昔のままだ。持ち前のデリケートな瓜実顔は変わりない。どうやら、或る不幸な若い女が、あまりにも手で顔を蔽いすぎたため、ついに両手の指のあとが顔に残ったかと見受けられた。目は相変わらず青空の色をとどめていたが、もはや力は失せていた”と。

 画像はタイ・ピンと、ジェームズ・ティソJames Tissot(1836-1902)によって描かれたイギリス、ファーンボローヒルのウージェニーと皇太子の肖像画です。


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