〜 Schwarzburg シュワルツブルグ 〜
◆ Schwarzburg シュワルツブルグ
チューリンゲン地方にあったシュワルツブルグ窯(英独表記ではSchwarzburger)は、短命ではありましたがドイツ圏の民間窯にあって革新的な磁器作品をいち早く世に送った魅力溢れる窯です。ここで制作したアーティスト達はその後マイセンなど王立系窯はもとよりローゼンタールにも多く移り活躍しました。シュワルツブルグ窯は1882年、ヘルマン・ヨスト(Hermann Jost)によりウンターヴァイスバッハ(Unterweissbach)として創業、ブルーオニオン柄食器製造を始めます。
1908年、フォルクシュタット(Volkstedt)窯を合併し、技術責任者にドレスデンの工業大学を卒業し磁器製造機械の設計もしていたマックス・アドルフ・ファイファー(Max Adolf Pfeiffer、1875-1957)が招聘されます。ファイファーは安定した利益が望める食器を作らず、フィギュアを主としてベース、燭台、ランプ台など芸術性が要求される作品を専ら造りました。
フォルクシュタット窯所属アーティストの他に、エルンスト・バルラハ、マックス・エッサー、パウル・ショイリッヒなど、優れたアーティストと契約し、1910年ブリュッセル国際万博にて金メダルを受賞します。
その後欧州各地の展覧会で受賞され評価されました。しかし1913年にファイファーがマイセン窯に移籍、1929年には米大恐慌の影響を受け、窯は解体されてしまいます。
戦後はウンターヴァイスバッハとして現在も存続、シュワルツブルグのフィギュアも復刻されています。
◆ ファイファーとドイツ工作連盟
シュワルツブルグ窯を牽引したマックス・ファイファーは、1875年ベルリンに生まれ、大卒エンジニアとして磁器製造機を設計した実績があり、ドレスデンの建築会社で働いていたところを、1908年ウンターヴァイスバッハ窯に招聘されました。ファイファーがドイツ工作連盟(Deutscher Werkbund)のメンバーであったことが、窯の方向を決定します。
ファイファーはドイツ工作連盟の理念である芸術と実用の両立を目指し、Schwarzburger Werkstaetten fuer Porzellankunst、「磁器芸術のためのシュワルツブルグ工房」と名付けた芸術部門を独立させ、狐マークと共にこの工房名を併記して窯印とします。このスローガン入りの窯印が彼の意気込みを象徴しています。
彼のドイツ工作連盟コネクションにより、エルンスト・バルラハをはじめとする優れた彫刻家が磁器フィギュアを作り、アルベルト・ニーマイヤーなどのデザイナーもインク壺などの文具をデザインし、シュワルツブルグ窯の名声は一気に高まりました。しかしファイファーは窯を立ち上げてわずか4年後にマイセン窯に移籍してしまいます。
第1次世界大戦後、ゼネラルマネージャーに就任したファイファーは荒廃したマイセンの構造改革に着手し、シュワルツブルグ時代と同様にバルラハ、ショイリッヒなど外部アーティストと契約してフィギュアを造り出しましたが、1934年その地位を解任されてしまいます。
シュワルツブルグ〜マイセン〜KPMベルリンと渡り歩いたファイファーは、ユーゲントシュティル期の陶磁器界におけるキーマンの一人と言えます。
◆ 窯印
狐と「Schwarzburger Werkstaetten fuer Porzellankunst」の陰刻
モデル番号が「U***」と陰刻される