★戻
ぼくのヒーローの話。


千尋が再び、その青年に会ったのは、梅雨に入って何日かたったある日のことだった。
裁判所の地下にある資料室で調べものをした帰り道、近道だと教えてもらって以来、利用している公園を横切ろうとしたときのこと。
曇天の空の下、彼は、ぼんやりと古びたベンチに座っていた。
やけにトガッた髪型以外は目立たない、例の事件のときの印象が強すぎて、フツウの服装なのにまともに見える。
「なるほどクン」
元依頼者の青年に声をかけると、彼は驚いて、半ば眠るようだった瞳をパチリ、と見開いた。
「チヒロさん? どうしたの?」
そこも髪の毛同様、特徴のある眉を困ったように寄せて、へにゃり、と笑う。
なんだか悪戯しているところを見つかったコドモみたいに。
久しぶりに会ったのに、どうしたの? とは、ずいぶんごあいさつよね、と、思わずイヤミを言いたくなった。
なんだか出くわしてしまったのがマズイって顔。
「どうしたの? じゃないわよ。なるほどくんこそ、なにしてるの?」
ああ、そっか、ここ裁判所の近くだもんね、チヒロさんが通って当然か……、小さく語尾を呑み込んで、成歩堂はその目を薄く閉じた。
ベンチの背に身体を預け、だらしなく座っているその顔色はあまりよくない。
近づいて見ると額に小さな汗の粒がいくつも浮いていた。
「なるほどくん?」
もう一度、声をかけると、成歩堂は小さく頷いて、だいじょぶ、と呟いた。
「……ときどき、ね、具合が悪くなる」
「病院には行ったの?」
俯いたまま、成歩堂は首を横に振る。
「病院はキライだから」
ん、もう! 好きな人間なんていないわよ、と千尋は声をあげる。
裁判の後もそうだった。
皆が散々忠告したにもかかわらず、成歩堂はその場から逃げ出してしまったのだ。
「お腹のアレは、どうしたの?」
キツイ口調で問うと、成歩堂は小さく、多分、まだココ、と腹部を指さした。
前代未聞の初公判に加えて2度目の公判もある意味、まったく前代未聞の裁判だった。
なんたって、依頼人が証拠品を隠匿してしまったのだから。―――それも自分のお腹の中に。
「死んじゃうわよ、なるほどくん」
成歩堂の隣に腰掛けて、千尋は、キッと眉をつり上げた。
「……うん」
「うん、……って、ええっ?」
千尋の方を見ないまま、成歩堂は頭を垂れる。
そう言えば、この青年は酷い裏切りにあって失恋をしたのだ。
まさか緩慢な自殺を図ろうしているとか……。
「いやいやいやいや、そんなこと思ってないよ」
まるでその考えを読んだかのように、成歩堂は顔をあげて千尋に振り返る。
「言ったろ、千尋さん、ぼく、どうしても助けたい友だちがいるんだ」
だから死なないよ、っていうか死ねない。
具合が悪いにもかかわらず、そこだけはハッキリとした口調で成歩堂は千尋に振り返る。
その真摯な瞳を、千尋はどこかで見たような気がする。
デレデレ、という言い方が当てはまりすぎる成歩堂の、頼りないことこのうえない依頼人のボウヤの、どこに、そんな強い意志が潜んでいるんだろう。
そう言えば裁判の後に話したときも、瞳の色が違ったのだ。
その輝きに打たれる。
なぜならそれは、ほかでもない千尋の決意に似ていたから。

わずかながらに厚い雲がわかれ、ベンチの後ろから陰を投げかける木々の合間から光が零れてくる。
その陽に眩しそうに目を細めて、でもね、と成歩堂は照れたように笑う。
「択一試験、落ちちゃった」
ああ、そうか、だから気まずそうだったの、と合点がいって、千尋も同じように目を細めて微笑んだ。
「わからないことがあったら、教えてあげるから、聞きにきなさい」
「え? ホントにいいの?」
お腹を手で押さえたまま、成歩堂は千尋のほうに身を乗り出し、うれしそうにまなじりを下げた。
「その代わり、『助けたい友だち』のこと、今度教えてね」
それってどんなコなの? と千尋が首を傾げると。
成歩堂は、しばらくの間、口をつぐんで逡巡する。
それからまた、あの真摯な、強い意志を秘めた瞳で。
「チヒロさん、ヒーローはね、最後には必ず勝つんだよ。でもピンチのときだってある」
はあ……………………?
やっぱりこのコ、ちょっとアレなのかしら……。
千尋の意識は、少し遠のく。
そんな千尋を後ろ目に、成歩堂はにっこりと微笑んだ。
「だから、ぼくが助けなきゃ」

いつかね、話すよ、チヒロさん。
ぼくのヒーローの話。



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2004年9月5日の裁きの庭で配布したペーパーより。